法(law)は、デモクラシー(民主制/democracy)を制度的に支える。そして、デモクラシーが法をつくる。この、一見すると矛盾するように見える運動の連続こそ、立憲民主制(constitutional democracy)あるいは自由民主制(liberal democracy)と呼ばれる体制の本質なのではないか。今回は、法とデモクラシーの関係について考えてみたいと思います。法は、必ずしも民主的なプロセスを経て制定されるとは限らず、また民主的なプロセスによって制定された法が最もよくデモクラシーを守るとも限りません。それどころか、民主的なプロセスによって選ばれた統治者が最も非民主的な法をつくり上げた例は枚挙に暇がありません。つまり、問題の本質は「統治者が、真に民衆によって選ばれているか?」ということだけではありません。むしろ、「統治者が、真に民衆によって選ばれている」ということは同時に、そのような統治者には統治における絶対的な正統性が存在することになり、彼のつくる法や彼の統治には、たとえそれらがいかに非民主的なものであっても必ず従わなければならないという悲劇的な矛盾を生むことになります。この「デモクラシーによる独裁」という悲劇は、何も真新しい現象ではありません。プラトン(Plato)は「デモクラシーは独裁を生むことがありうる」と言ったのではなく、「独裁はデモクラシーからしか生まれない」と言い切りました。そして、それは今なお、論理的には正しいのです。一億人のデモクラシーがありうるならば、一千万人のデモクラシーも、百万人のデモクラシーも、一万人のデモクラシーもありうる。そして、最後には”一人のデモクラシー”も、論理的にはありうるということになります。人間は、自分の意見が代弁されていると感じるとき、意思決定のプロセスは「民主的である」と言います。しかし、自分と反対の意見や自分と異なる意見が代弁されるとき、その意思決定のプロセスを「民主的である」と言うでしょうか。キリストであるイエスは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」と仰いました。真に民衆によって選ばれた統治者など存在しません。それは、政治に理想を持ち込んだ時点で、政治も理想も必ず失敗することが示しています。政治は、理想に対して責任を取ることはできません。政治の腐敗や政治の失敗の最大の問題は、それらが民衆の政治に対する関心を失わせることではなく、そのような政治への無関心が最終的には、政治に最大の理想を求めることに繋がることなのではないでしょうか。プラトンの時代と今日で異なる点は、法に対する考え方です。プラトンの時代において、法とは「文字通り従わなければならないもの」、「一部の権力者が定めるもの」、「善い統治を目指すためのもの」です。それに対して今日では、法とは「その内容と手続きが正当なものである限り、従わなければならないもの」、「国民(の代表)によって定められる(とされている)もの」、「国民の自由を守り拡大することを目指す(とされている)もの」です。しかし、どれほど民主的な法が存在したとしても、法それ自体が人間を守ることはできません。民主的な法をつくったら、それで終わりではありません。つまり、人間を省略することはできません。それは、プログラミングの作業それ自体をプログラムで自動化することができないことと同様です。人間を省略することができない点は、法学と論理学との決定的な違いでもあると私は思います。論理学では、答えを導くまでに演繹的な合理性が求められます。勿論、その中に経験則が入ってくる余地もありますが、あくまでも中心的な役割を果たすのは、演繹的な合理性です。もしも、人間が経験則のみによって物事を捉えることができたならば、論理学は必要なかったのではないかと思います。人間が論理学を必要としたのは、人間が賢くないからだと思います。つまり、論理学は、出来るだけ与えられた命題のみから答えを導き出そうとします。そして、論理学がそのようなプロセスである限り、最も簡潔な論理と最も簡潔な答えが求められることになります。「いかなる場合にも正しい答え」と「場合によって正しいが、場合によっては正しくない答え」のどちらが理想でしょうか。論理学の理想は前者です。しかし、法学はそうではありません。法学は、「最も論理的で簡潔なプロセスや答え」よりも「論理的に筋が通っていないプロセスや答え」を選ぶ場合があります。それは、法学が究極的に正義(justice)とは何かを考え、正義を目指すものだからです。そして、それが生きるということの意味でもあります。法学の目指す正義とは、一人一人の人間が真の人間性を取り戻すことです。そしてそのためには、99パーセントの正しい論理よりも、1パーセントの正義に賭けることもありうるのです。10000ページある本のうち、9999ページの論理が正しかったとしても、最後の1ページでその論理をひっくり返すことがありうるのが法学であると思います。判例や裁判例といったものは、この9999ページの論理にすぎません。しかし、法学を「論理学的なプロセス」と同一視したり、過去の判例や裁判例を読むことに慣れてしまうと、それらがあたかも「答え」であるかのように勘違いしてしまう危険があります。この現象は、法学だけではなく他の全ての専門領域にも当てはまります。医学を長く学び膨大な症例を診つづけてきたからこそ生まれる過信、策に溺れる策士、自信があるからこそ生まれる油断…。先に述べた正義が、それを目指す人数の大小にかかわらないことは勿論ですが、それだけでなく正義とは、一つの教条化した原理のことでもなく、優れた者が他人に押し付けるものでもありません。なぜなら正義とは、それを教条化した時点で正義ではなくなるからです。しかし、人間は明確な答えを求めました。徹底的に明確な答えを求めました。しかも、人間自身に理解することができるものとしての答えを求めました。その時から、人間の間違いは始まったのではないかと私は思います。容易に答えの出ないこの世界で、粘り続けること。粘り続け、生き続けることで、自分が今探している「答え」が見つかるかどうかは分かりません。しかし、粘り、諦めない力だけは確実に身につきます。なぜなら、生きることは「答え」ではなく、常に「プロセス」の連続であるからです。そして、そのプロセスの連続に耐えうる力こそが、今を生きる全ての人間に求められているのではないかと思います。立憲民主制あるいは自由民主制は、手間暇のかかる制度です。「意思決定のプロセスを自動化できないのか?」「もっと経済合理性を追求した合理的な制度にしてくれ」「なぜ、行政にはこれほど無駄が多いのか?」…。このような声は、よく聞かれます。しかし、人間はそれほど賢い存在でしょうか。人間の外にあるシステムやプログラムによって、人間を自動化し、省略することは決してできません。人間がつくり出した罪は、必ず人間に降りかかってきます。立憲民主制や自由民主制に現れた法とデモクラシーの間の微妙な関係は、人間が人間性を失わずに共に生きる一つの方法を提示しているのかもしれません。